東洋、西洋とへだてることなくお茶を飲む行為は人類の偉大な習慣のひとつです。最初にお茶の見本がヨーロッパに渡来したのは1610年で、それまでヨーロッパではお茶を飲む習慣はありませんでした。当時のヨーロッパの商業の中心地であるベニスや英国でなくオランダに渡来しました。オランダ東インド会社は1610年も前から東方貿易を行っていました。
記録によるとオランダは九州、平戸で中国原産のお茶を栽培しており、その不発酵の緑茶を少量1610年に持ち帰ったといわれています。
オランダ東インド会社では東洋の珍しいお土産としてオランダ皇室に献上しました。それ以来オランダ王室ではお茶を飲むことがファッションになり、東方貿易から帰帆する船には、必ず中国や日本の陶磁器を積んで帰るように要請しました。
お茶が英国にもたらされたのは1650年頃でオランダ東インド会社によってでした。英国での新しい飲み物の評判は高まる一方で,又少量しか輸入されずほとんどが貴族たちの手にわたり一般の人たちにとっては天文学的な値段を払っても入手するのが困難な状態でした。
英国でお茶が一般に広まったのはロンドンのコーヒーハウスからです。お茶は樽から掬い取って提供されていました。
英国王チャールス二世はオランダのキャサリン・ド・ブラガンザ王妃と1662年に結婚し、輿入れの一つとしてお茶を持参したのが英国でお茶が飲まれた最初です。
しかし、1669年に英国王チャールス二世はオランダからお茶や陶磁器も含めた商品の輸入を禁止し、英国東インド会社に東洋の産品の輸入を奨励しました。英国東インド会社はこれを幸いに需要が増大する東洋の商品、特にお茶の独占貿易の旨みを享受しました。
アメリカにも英国と同じ頃お茶は紹介されています。ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)の人々は特にお茶好きであったため1770年ごろまでには大量のお茶が英国東インド会社の船で陸揚げされました。1773年英国王ジョージ三世は植民地から税金を徴収しようとしてアメリカを選び、聴衆権の法令を施行しました。難易に税金を掛けるかが検討され、テストケースとして選ばれたのがお茶でした。
1742年にロンドン・チェルシーにオープンされた円形型(直径150フィート-)の有名なティー・ガーデン。中央の飾り柱は屋根を支えると同時に夕方寒くなったときに火を熾し、暖房の役もした。入場料はパン、バターとお茶で10ペンスでした。税額はアメリカに陸揚げされる全てのお茶、1ポンド(重量)に1ペニーを課徴しました。仮に月に1ポンドのお茶を消費するヘビー・ドリンカーにとっては年間わずか12ペンスを払うだけで、お茶そのものの値段に比べ課徴金はたいした額ではありません。
しかし、植民地の人々にとっては主体性を侵害されることになります。税金が上乗せされたお茶を飲むことは英国の税調集権を容認することになるからです。その結果、お茶は不幸にして英国の圧制のシンボルとして嫌われるようになりました。
1833年英国政府は東インド会社が享受していた中国貿易の独占権を撤廃しました。
しかし、実質的には東インド会社だけが1840年後半まで中国貿易を独占していました。一方、アメリカは驚くべき熱意で、軽くて船足の速い完全に新しい型の船、クリッパーを完成させ、中国貿易にのりだしました。この新造船を”Battimore-バルチモアー”と名付け広州とアメリカ間の航海日数は従来の半分で往復しました。
東インド会社の旧来型の帆船では全く勝ち目がなくなりました。しかし、幸いなことにカリフォルニアで金鉱が発見されたことからアメリカは中国貿易に興味を失いました。
カティーサークTaeping号とAriel号が1866年の航海競争でリザード半島を走っている図。Taeping号が20分速くロンドン港に到着し、積荷の商品はオークションで最高値をつけた。
英国の船主連は中国貿易にいっそう力を入れ、高速船の建造に走り、どの船が最も早く中国の船荷を積んで帰港するか競争熱が高まりました。
ダービーに次ぐスポーツイベントとして一般の関心をひきつけました。中でも有名な高速船、クリッパーは”Catty Sark-カティーサーク”で今もテームズ河畔で見ることが出来ます。
しかしながら、蒸気機関の時代が近つき、スエズ運河が開通し、東方航海の時代は終わり、同時にお茶のロマンチックな物語ページを閉じることになりました。